いでたち通信は点字に翻訳し、視覚障害者に配布されています。

   
  1.ヘレン・ケラー3 -社会活動-              馬場 威力

  ヘレンが大学を卒業したころのアメリカは、盲ろう学校を卒業しても「働く場所を提供できない、しない」そのように福祉の遅れた社会の国だった。若かったヘレンは3年間に、アメリカ大陸の東海岸から西海岸の間の123都市を訪ね、249か所の集会に参加し、25万人もの聴衆に話しかけた。
 その講演活動は南米、アフリカなど世界各国にも及び、日本からも来日要請があった。1934年、サリバン先生を病床に見舞った時、「ヘレン、私はもう何時天国に召されるか分りません。そのことは少しも心配していません。はるばる日本から盲人の啓発のために助けてほしいとの依頼だから喜んで行ってください。あなたをここまで教育したのも、そのような求めに応じて、全世界の盲人と手を握り、皆が幸せになれるようにとの願いのためでした」と励まされた。サリバン先生が亡くなった時、「サリバン先生は自分のような者のために、その一生を捧げきって、死んで行かれた。それこそ、完全な奉仕の生涯であった。残された私こそ、それを継がなければならない」と、ヘレンは固く心に誓った。
 結局、戦前の1937年と戦後の1948年、1955年と3回もサリバン先生の後任のトムソンと来日し、全国を回り、遅れていた日本の障碍者福祉について、1950年「身体障碍者福祉法」の成立に貢献された。なお、1952年から1957年の間に南部・中部アフリカ、中東、北欧を訪問し、障碍者福祉の向上のために尽力された。日本でヘレンが蒔いた種は、東京では「東京ヘレン・ケラー協会」、大阪では「日本ヘレン・ケラー財団」の設立となり、実を結んだ。
 これらの実績に対してフランス政府はレジオン・ド・ヌール勲章を、アメリカ政府は大統領自由勲章を、日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。
 なお、1937年に来日された時には、4月16日の観桜会に出席、昭和天皇にお目にかかっている。当時の日本は福祉途上国の状態だった…横浜中区にある訓盲院、これは1889年(明治22年)、アメリカ人宣教師、ミセスC.P.ドレーパーが横浜市南区に視覚障碍者教育のために創り、運営して来たものである。

 

  2.アジのマリネバケットサンド                いでたろう

材料1人分 アジのマリネ100グラム、バゲット半本、玉ねぎ四分の一個、

1.     アジのマリネに玉ねぎスライスを加え、一晩寝かせる

2.     バゲットをカットしてマリネを挟み込む。

ポイント 寝かせる時間が短いと、辛みが強まる。バケットをトーストしても良い。

 

3.思いつくままの走り書き -覚えておきたい二人の女性-    中村 斉

  元号が、「令和」になって、はや二ヶ月が過ぎた。あと五年経ったらきっと誰もが知っているだろう令和時代のホープである二人の女性をご紹介したい。
 そのお一人は栄区出身の講談師 神田阿久鯉(かんだ あぐり)さん。栄区に転居された頃、区の人口が増えて、中学生の時には学年が変わるたびに本郷・庄土・上之中と3校に在籍するという珍しい体験をされたという。学生時代を過ぎ、歴史好きの彼女は講談の神田松鯉(かんだ しょうり)さんの門を叩き入門。修業の期間は過ぎ、現在では堂々の真打である。私が彼女の語るのを始めて聞いたのは、西区公会堂で開催された横浜出身の芸人さんの勉強会でのこと。3月梅の季節にふさわしい一席「曲垣平九郎愛宕神社誉れの梅の花(まがきへいくろうあたごじんじゃほまれのうめのはな)」をみごとに演じきった。さすがに真打ということで、場内のお客さまが、目を瞑って聞入ったり笑ったりうなずいたり、真打の貫禄充分での一席であった。新作物に目もくれず古典一筋というのが、必ず大輪の花を咲かせることになると、私は思う。
 もう一人は和歌山県出身で、全盲の「すがた りか」さん。日本点字図書館発行のデイジーマガジン6月号に掲載されたインタビユー。それが、あまりにも素晴らしく、私は何度もリピートしてしまった。問いに対して自分の障害や盲学校での生活などをコンパクトに語り、将来の仕事を見据えて高校の国際交流科に進学したこと、東大の入試のことまた英国・カナダ・フランスへの留学生活の様子を語った。小学校の低学年からはじめたピアノの技量は、すでに上級であるという。彼女の志望は大学で、学校制度や指導の内容に関して研究を重ね、国際機関例えばユニセフなどで、世界の子どもたちの為に力をそそぎたいと言う。大望必ず叶うと思う。なおお名前の漢字表記はインタビユーの中ではふれていなかったので残念ながら不明。でもきっとどこかで「あの人だ」と知る日が間もなくやってくると期待している。

 

  4.編集後記                         石澤 洋一

最近、私は、新聞記事で感動的(自分にとって)なものがあると切り取ってノートに貼っている。一番多いものは、1面の「朝晴れエッツセー」の中にある。投書(オピニオン)欄とは違い、寄稿者の人生が書かれているので、色々な生き方があったんだなあ、と考えさせられる。例えば、6/11、「緑の季節」というのが載っていた。その内容は、「僕は今84歳の夜間中学生です。小学生のときに先生と生徒にいじめにあい、小学校を途中で行けなくなりました。文字を失ったまま大人になりました。・・・仲間たちは次々と結婚しました。僕は自分の名前も書けないので結婚は無理と思いました。友人の紹介で結婚しました。妻は僕の読み書きができないことを理解してくれました。それから2人のかわいい女の子にも恵まれました。今は孫5人に恵まれて幸せです。・・・」という記事だった。後で、“オイオイ、字の書けない人が投稿出来るのかよ”と思いました。(奥さんは5年前に亡くなっている)そうしたら、この人は、夜間中学生という肩書でした。84歳になっても勉強しようとしてい姿、今は亡き奥さんの優しさに感動させられました。


 


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