いでたち通信は点字に翻訳し、視覚障害者に配布されています。
 
  
 

 

1.目黒散策                     飯島みや子

 テレビで目黒川沿いの桜を毎年映じている。満開の花の下で賑やかな花見客。以前、私は「東京の街角」という本を点訳し興味半分で目黒の町を一人で訪ね歩いた思い出がある。想い出してこの桜に誘惑されて暫く振りに一人で散歩した。
 目黒駅は大きく立派になっていた。昔目黒川の廻りは農家の田や畑が沢山あって、川の側に山手線を通し目黒駅を作る計画であった。当時農家の反対が多く、仕方なく上の丘陵を切り崩し目黒駅が完成した。そして高級住宅や商店街が出来、開かれた。ちなみに目黒駅の所在地は品川区上大崎である。
 目黒というとさんま。毎年九月さんま祭が催される。さんまは安くて大衆の魚、江戸城に魚屋は行く筈が無い。鷹狩りの途中茶屋に一服と立ち寄って食事を頼んだ。茶屋の主人は大慌て「将軍様のお口に合いますかどうか」恐る恐る出した焼いたさんま。余程旨かったのか・・・大変気に召したのか大喜びで「どこのさんまだ」「はあ・銚子で取れたさんまでございます。」「いやさんまは目黒に限る」八大将軍吉宗である。
 目黒駅を出ると左側に権之助坂と行人坂の二つの急坂がある。農民が常に苦労しているので、菅沼権之助という名主が、この傾斜の坂を一人でゆるやかに切り開いた。地元の社会事業であった。しかし、年貢米の取立てが厳しく、村人の為、訴えを起こした。罪に問われ役人に引かれ、この坂を登って頂上で村を振り返り、眺め、別れを告げた。元禄時代のことである。一方、行人坂は坂の途中に行人が住んでいた。この坂の途中に天台宗の大圓寺がある。明和九年(1773)二月本堂が火元で江戸市街地の三分の二を焼き、死者を出した。「明和の大火」で、その供養のため建立された。五百羅漢像を石仏群が境内にびっしり並んでいる。文化財となっている。五十年の歳月を費やして完成されたという。斜面に並ぶ石仏群。法名も刻まれ一体一体顔の表情も違っていた。貧しかった江戸庶民、二月の寒い時の猛火。喘ぎ苦しみ死んだ事だろう。線香を求めて供えた。石仏何かを訴えかけているようであった。八百屋お七の地蔵尊もあった。坂を下ると目黒川。左側には昭和の竜宮と云われる百段階段の雅叙園、昭和初期の文化財になっている。
 目黒川の太鼓橋が見えた。目黒川は世田谷から目黒を通り、品川そして東京湾に注ぐ。池尻橋まで388m、両川沿いに800本のソメイヨシノが植えられ、四月初め桜祭が開催される。今年の三月肌寒く桜は小さな蕾をつけて陽春を待っていた。都内の屈指の花見になっている。満開になったら、川にせり出しさぞ見事であろうと想像して帰ってきた。

 

2.厚揚げの煮物                    畠山 工

素材分量2人分、 
厚揚げ1枚、豚ひき肉100グラム、干ししいたけ2枚、青ねぎ適量、にんにく1片、しょうが1片、ねぎ5センチ、サラダ油小さじ2、酢小さじ1、片栗粉大さじ1、しょうゆ大さじ1、オイスターソース小さじ2、酒大さじ1、砂糖小さじ半分、鶏ガラスープ適量、
 (1)厚揚げはさっと茹でて油抜きをし、ひと口大のそぎ切りにする。
 (2)干ししいたけはもどして、粗いみじん切りにする。ねぎとしょうがとにんにくもみじん切りにする。
 (3)青ネギは斜め薄切りにする。
 (4)中華鍋に油、にんにく、しいたけを入れて中火にかけ、香りが立つまでゆっくり炒める。
 (5)しょうがとねぎを加えて炒め合わせ、ひき肉も加えてぽろぽろになるように炒める。 
 (6)しょうゆ、オイスターソース、酒、砂糖、ガラスープとカップ1杯のお湯を加えて2分ほど煮る。
 (7)厚揚げも加えて5分ほど煮て、酢を加える。片栗粉を倍量の水で溶いて加え、全体にとろみをつける。 
 (8)器に盛りつけ、斜め薄切りにした青ねぎをちらす。
 エネルギー316キロカロリー、 塩分2グラム

 

3.思いつくままの走り書き−私はラジオ派−       中村 斉

 日本のラジオの歴史と私の年齢とを比べると、ほぼ同じ歳だ。ラジオの申し子というわけではないが、とにかく私の日常にはいつもラジオがからんでいる。遠い記憶はベルリンオリンピック中継。その大会は、その後家族揃って映画を観て復習したので、記憶が鮮明だ。日常生活では、まずラジオ体操。 昇る朝日の光を浴びて 曲げよ伸ばせよわれ等が腕(かいな) ラジオは叫ぶ1、2、3。夕方は「こどもの時間」から聴き始め「天気予報とニュース」はちゃぶ台を囲んで聞いた。父が歌好きだったので「国民歌謡・ラジオ歌謡」は、家族揃って聴き、歌った。戦争が激しくなると「防空情報」を聞くために夜遅くまで神棚に鎮座するラジオは鳴りつづけていた。玉音放送は受信状態が悪いうえに難解な言葉が多くわからなかったが、その後の大人の動きで、日本は戦争に負けたのだと次第に理解した。戦後のラジオ放送は、まずドラマ「鐘のなる丘」や、下町の暮らしを明るく描いた「向こう三軒両隣」の連続ラジオドラマは家族揃って聴いたものだ。ご存知「君の名は」が放送されたのは、私が大学生になっていて、演劇の活動を始めていたので、時折しか聴かなかった。むしろ第二放送の夕方の「学生の時間」をよく聴いた。この番組のドラマのコーナーに出演、内幸町のスタジオから生放送したのは思い出のひとつ。しゃべった台詞はたった一つだったが・・・。一編の詩を投稿し原稿料をいただいたのもこの番組だった。
 さて、最近はニュース番組を中心に聞いている。テレビは、映像として多くの資料は提示するものの、そのニュースの要点を伝えてくれない。ラジオはコンパクトにまとめて、それに関する個人的な見解も添えてくれるので、自分なりのニュースの捕らえ方をもてるので、ありがたい。民間放送局は、コマーシャルがあるので、無料で提供されているとは承知しながらも広告の多さがじゃまになる。でも時折商品のプレゼントがあり応募すると2年に一度くらいの割で当選して家計に協力することが出来、妻もルンルン気分になる効用がある。年齢も高くなり若い頃のようにながら族にはなれないので、ラジオのスイッチをこまめに切ることにしたいと思っている最後にラジオ派推薦の番組はと問われたらNHKラジオ深夜便の中の「ナイトエッセー」をお薦めする。

 

4.「いでたち」に出会えた夫             井上 道代

 平成二十七年十一月三十日に夫「進」が永眠しました。八十三歳でした。進は、「退職したら、人の役に立つことがしたい。」と、申しておりました。

 進が、第三の職場を退職した頃、栄区で、男性ボランティア団体「いでたち」が、発足いたしました。ボランティアに対する全般的な講習を受けた後、点字を学習し、「点字通信」を発行しました。その後は、音声で伝える技術を覚え発信していました。
 また、福祉教育で、小中学校から依頼を受けると、視覚障害者を学校までお連れして授業中の司会を努めていました。目が見えなくてもきちんと家事をこなし育児をされたというお話を聞き、賢くりっぱな人だと心から感心し、尊敬の気持ちを私に聞かせてくれました。
 進は、社協で、パソコンの堪能な方々にボランティアで、指導していただいたことをとても喜んでおりました。私も教えていただき、本当にありがたいです。その後、桂台自治会館にも、故桐生様、鈴木宏一様に教えに来ていただき、多くの人達に喜ばれておりました。
 平成十六年、桂台自治会館で、住民の親交を目的とした桂台西サロンが設立された時、「人と人との交流は、大切だから、道代はサロンのボランティアに応募したらいいよ。」と夫からすすめられ、私も、参加させていただきました。
 また、平成二十五年に現在の横浜駅近くのマンションに転居した時、すぐそばの東横フラワ―緑道で、花の手入れ、掃除などのボランティア活動をしていることを知り、夫は「道代、先にボランティア活動を始めて欲しい。そのうち、僕も参加するから。」と言っておりました。私は、進に触発されたお陰で、心暖かい人達との交流が、実現しました。
 「いでたち」のすばらしい方々と出会えた事を夫も私も心から感謝致してしております。


 
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